島プリン君のBlog

石垣島在住者・旅行者向けにリアルな石垣島のローカル情報を紹介。

石垣島の隠れスポット発見!電信屋ってなに?

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今回は石垣島に移住してきて私自身も知らなかった場所へ知人の情報をもとに、

車を走らせワクワクしながら行ってきました。

私自身石垣島といえば透き通っていて突き抜けるようなエメラルドブルーの海が多くてサラサラの砂浜ビーチがたくさんある=石垣島の象徴。

そんなビーチから外れた場所に「電信屋」という場所があります。そこにあるものを見に行ってきたのですが、観光ガイドには多分載っていないと思われる、

石垣島の地元民も知らない隠れスポットを少しでもご紹介できればと思います。

<目次>

 

電信屋とは

石垣島の中心から名蔵湾に沿って79号線を北上していくと、屋良部半島に沿って左に折れる道があります。そこを入り又海沿いに西に進むと、道案内の標識があるのでそれにしたがって左の方に。
道はすぐに未舗装になり轍があるのでタイヤを山と山に乗せて慎重に進みます。 しばらく行くと少し広い場所に出て駐車できますが、その右手に有る今にも壊れそうな建物がデンシンヤーと呼ばれている電信屋の跡です。
又の名を元海底電線陸揚室。
日清戦争終結下関条約で中国の清から台湾を割譲した1895(明治28)年、まだ抗日運動なども台湾内では根強かったようですが、通信の重要性を理解していた日本は、植民地となった台湾との間に軍用海底線を敷設する事にしました。翌年に鹿児島~沖縄本島、その翌年明治30年には石垣島を経て台湾との間に海底船を敷きました。
そして日本~台湾間の通信施設が完成しました。
この時、中継場所として作られたのがこの電信屋です。
当時は日本陸軍省の管理下にありもっぱら軍の通信用に利用されていたようですが、後に管理を逓信省に移管されて一般公衆通信にも供用され、それから第二次世界大戦の戦後まで、約半世紀にわたり重要な役割を果たしてきました。
戦では、アメリカ軍の攻撃目標の一つになってしまい、現在もその当時の様子を語るように、壁や天井に無数の弾痕が残っています。
伊江島にある公益質屋跡と並んで、今も当時の様子を物語っている、貴重な建物です。

この電信屋の横からほんの少しだけ歩くと、ほとんど人のいないビーチに出ることが出来ます。

 

電信屋へのアクセス

 石垣島の中心部から名蔵湾に沿って県道79号線を北上していくと、屋良部半島・崎枝方面に向かう(左に折れる)道があります。
そこを左折し海沿いにしばらく西に進み、「大崎牧場」の手前まで行くと道案内の標識があります(大きく右にカーブする場所です)。
そこを左折してください。道は一部舗装されていますが、大半は未舗装のデコボコ道で、しかも轍があるため、タイヤを轍の山と山に乗せて慎重に進んで行ってください。
また、道の横にある有刺鉄線にも注意してください。(シーズンによっては雑草にも注意が必要です。)
しばらくすると、車が数台程度駐車のできる少し広い場所があり、その右手にある今にも壊れそうな小さな建物が電信屋です。

 

碑文

1895年(明治28)の日清戦争終結後、日本はその領有となった台湾との間に通信回線を敷設することにし、1896年(明治29)先ず鹿児島~沖縄本島との間に、次いで翌1897年(明治30)沖縄本島石垣島~台湾間・石垣島西表島間に海底電信線を敷設した。
これにより、本土~沖縄本島石垣島~台湾間の通信回線網が完成した。
当初、通信回線は陸軍省が管轄していたが、後に逓信省に移管され1897年(明治30)7月1日八重山郡大川村12番地に八重山通信所を設置し一般公衆電報の取扱を開始した。以来この海底電信線は明治・大正・昭和の三代にわたって政治・経済・文化その他各分野の先駆けとしての重要な使命を、担っていたが太平洋戦争の戦災を受け昭和20年に破壊された。21世紀高度情報化社会の到来とIT新時代を迎え、

電気通信システムも著しく変貌しつつあるが、この海底電信線の敷設された歴史的経過を永く残すため、海底電信線の陸揚げ地であるこの地に記念碑を建立する

 

 

電信屋横ビーチ

 湾の内側なので、比較的穏やかな海です。シャワー・トイレはないけど、誰もいないビーチでまったりシュノーケルもできるよ。

 

最後に

僕も今回行ってこうやってブログに書いてより深く振り返ってさらに好きになった場所の一つになりました。石垣島に来た際は皆さんも是非!